見られている未来 その時、会場は静かながら盛り上がる興奮を抑えかねていた。
「あっ」「おう」「あれは・・・」白黒の少しセピア色した小学六年生の卒業写真が大きなスクリーンを左から右へ少しづつ流れて行った。
顔、顔、顔、あの顔が。
スクリーンの向こうから少年や少女たちが、60年後を見ているような気がして来た。還暦同窓会の一こまである。
そうして写真に向かい合う還暦の38人の背後に、残り少ない未来の海が広がっている。
太陽は日の出と日没が最も美しいとか。海を背景に出来ればなおのこと。
世に旧(ふ)る面々は茫然とスクリーンに見とれている。
未来の海はスクリーンと対峙する人々との間にも、ざわざわと波立ちながら広がってくるようだった。
何人かの「未来人」が呼び出されて前に出て、「今の私はこれこの通り」と言う。同時にワッと笑いが広がる。
ここで未来はある種の劇中劇と化し、演じ手も、観客も、競演者ということか。
それにしても、スクリーンに写った小学六年生の少年少女は皆とても可愛くて前途洋々だったのだ。
その日集いし面々はそれなりに幸せな人ばかりで、既にして亡くなった者や、来たくない事情の者や、連絡の付かなかったなかまも多かったに違いない。
ともあれ、夢多き少年少女は誰欠けることも無くスクリーンにあった。
60歳に成ったら、一度人生の棚卸をした方が良いとも言われるが、どうだろうか。
準備ついでに辞世の句でも詠んでおくべきか。
ところで、先人の辞世の句に
山崎 宗鑑
『宗鑑はいづこへと人の問うならば ちとようありてあの世へといえ』 89歳
(※ようは用と瘍の意。宗鑑は瘍を患って死んだ。)
未来は遠く、そうして近い。
足元の波はもう胸のあたりまで深くなっている気もする。
しかし、湯につかれば、肩までが気持ちがいいし、波を湯だと思って、もう少し楽しみたいものだと思う。