初めて「子ども食堂」のニュースを耳にした時は「え!」と思ったものです。
日本にも貧困が日常化し、顕在化して来ていることでした。
私たち戦後生まれの時代では、皆貧しかったので、裸足で登校する子供や、栄養不足で青ばな(鼻水)を流している子供、着る物は継ぎ当ては当り前でした。
学校給食はなく、弁当の時間になると決まって外に出てゆき、運動場の遊具の所に行く級友に心が痛んだものです。1年生ぐらいだと気付くまで時間があって、その内担任の先生も気が付くと、その子を教室に入れ自分の弁当を半分その子に与えるようになりました。
これが一番の教育だったと思えます。
考えてみれば、1組50人ぐらいはいた当時のベビーブームの頃、50分の1がそのお弁当を持ってこれない人だったということでしょうか。
今は、どうなのでしょう。
この度、新富町の子ども食堂の改修をお手伝いした折に、少しだけ調べてみた所、大半の子ども食堂は週に1回か多くても2回程度の給食サービスを受けられるようでした。
毎日、毎食は大変なことなので、このようなサービス頻度となるのでしょう。なんとかならないものでしょうか。
10年程前、鹿児島の小学校の還暦同窓会があり出かけた折のこと。
あの運動場で、お弁当の時間を過ごしていたA君が出席していました。A君の少し禿げ上がった額は日に焼けて、小柄だが元気が漲(みなぎ)っていました。A君のひょうきんで楽しそうな様子に、白髪の増えはじめた級友の口から、A君の名前を次々に呼ぶ声が上がりました。
「元気やな!」(生きていたんだ!)
「良かった、元気でおいやって!」。
A君は皆が喜ぶ顔を見て、「今の自分の誇れる事」と題して自己紹介しました。
「おやっとサー(お疲れさん)」
「おいは、今孫達にうんまか米腹いっぺ食べさすっで、米を作っちょっど~」とのこと。
白髪まじりの旧友達から、
「ほんなこち、 A君 気ばいやんせ」
(ほんとうに良かったネ、A君頑張れ)
皆の心が一つになった瞬間でした。
新富の子ども食堂をご利用の子供達、
運営されているスタッフの皆様、食材を提供されている多くの方々、今回新富のこども食堂改修に木材を提供して下さった木城林産の皆様の未来がA君のように実りあるものとなりますようお祈り致します。