人はどこに生まれるかで、人生が大きく変わってしまう。
年を取ると、もう二度とはあり得ない自らの人生を「もし」という仮定ではあるが夢想してしまう。
「もし」からはじまり「ふと」夢想の連鎖が起きる。むろん、これまでの反省を含めて、どのような新しい人生がそこにあれば良いのかと考えてみる。
「年を取ったら、鍵一つで楽だからマンションがいい」と考える人も多く、事実、そのように住み替えた人も多い。新しい人生がマンションの鍵一つで始まることになる。
私の友人も、当然ながら、年を取って、これからの人生について考えている。
東京に生まれ、東京で育った友人にM君がいる。
鍵一つの人生を送って来て、今どのような未来を選択しようとしているのか聞いてみると、次のような感想を語った。
「生産と消費が直接的に結びついた生活で、自給自足に近い循環型の社会の中で、自分も周囲の人も必然的につながっている暮し方がいい」という。
企業社会と都市化の進行の中で、生産者の顔が見えない現代社会では、大根がいつ種を蒔かれ、収穫され、葉を切り落とされて店頭に並ぶようになったのか、消費者にとって、そのようなストーリーはまるで問題ではない。
その大根の値段と鮮度が問題であって、「近所の祖父が育てた大根だから有難く戴く」といったことではないのである。
「鍵一つ」というキーワード
高齢化社会の現実は「鍵一つ」というキーワードの中にはっきりと見えて来るように思える。
鍵一つで社会と繋がり、社会と切り離される。簡単で便利なことこの上ない。
「私」は生きているが、もしかすると、「居ても、居なくても」良いような社会とのつながりとも言える。そうであっても、「個」にとって「鍵一つ」でつながる「社会」は必要なのが現実なのだろう。
「だって淋しい」と思うのが人情というもの。
子供は早々と親離れして、犬を2匹仲間に引き込み、家一棟丸ごと「ハウス(犬のしつけで犬小屋に入れと命じる言葉)」にして同居している自分も似たようなものかもしれない。
「社会」からは注目も必要もされていない私という「個」なのかもしれないと言ったら言い過ぎだろうか。犬に注目されているだけでもうれしい自分で一安心とい ったところか。
M君には、既にご両親は無く、子供も妻もいないため、私共より早く身の回りの係累からのつながりが断たれている。
あまりに長生きすると、親も子も友人ですら、良く知る人は居なくなる。
東京という活動的ではあるが、生産よりも大消費地でありすぎる都市とあって、「個」は、自らの活動の幅を狭めることによって、かえって、周囲から孤立することになるのかも知れない。
地方という生産と消費のリアリティー
有難いことに地方で生きる私達は、種蒔きと収穫を身近に目にすることが出来る。
もし、自らが生産者の一員であれば、猫の手も借りたい時機には生産に参加することで、掛け替えのない労働力として収穫の喜びを分かち合うことになる。
季節が単に冬から夏に移り変わるのではなく、収穫の為の一年であり、そのお蔭でお米を食べることができるということ。
地方はそのことを身近な出来事として常に感じることのできる場所とも言える。
お祭りは人が行なう風物詩であるが、生産と消費が不可分である地方において、生産がうまく行かない時には、消費も困難であって、だからこそ「お祭り」は人々にとって大切な行事になっている。
東京のM君に今度会ったら言ってやろう、宮崎に来て生活してみないかと。
鍵のいらない生活も悪くはないよと。
でもこの頃コソ泥が多くなって宮崎も住みにくい場所になりつつあることも言っておくべきか!