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千両役者

             千両役者 
 湯の湧き出る音が、一際大きく響いた。
そこに居た人々は誰も動かず、じっとしていた。
不思議な緊張感が浴室全体を包み、硝子戸を開けて入った私に目を向ける人は誰もいなかった。
 そうして、ようやくにして私は皆の視線が注がれる先に一人の老人が居ることに気が付いた。
 その老人は浴槽から立ち上がり、体を反転させ、洗い場に向かおうとしているようだった。まるで浄瑠璃の人形の仕草のように、くくっ、かかか、といった具合。
それは張りつめた緊張の糸に操られ、静かでゆっくりとした動きであったが、一挙に全てが崩落する危険を孕(はらむ)、実に値千金の演技にも見えた。
固唾を飲むとは、まさにこの時のことを言うのだろうか。
 老人は湯に入って、どうも気分が悪くなったようだった。
 やがて、屈強な40代の男が老人の腕をつかんで立ち上がった。
「大丈夫か、あんたは家で寝とかないかん。どらどら。」ということで、この舞台はおしまいということになった。よって、千両役者は数人に抱きかかえられ退場。
 湯屋というところでは時々倒れる人が出る。湯当たりということで大抵は血圧低下による貧血が因である。
 この時に応じて、周りの者はどう行動したら良いのか、難しいところである。
私の縁者は、倒れた老人に声をかけ続け、面倒をみていたところ、いつの間にか、その老人の息子と見做(みな)されて閉口していた。
 私も一度千両役者に成りかけたことがあった。その日ゆっくりと入浴をすませ着替えるべく脱衣室に戻ると、貧血に見舞われた。
こんなところで、あられもない姿のまま倒れでもしたら、仮に救急車ということになるとマズイコトになる。
やっとの思いで手近なイスに腰かけ、意識の回復を待ったところ、湯上りにもかかわらず、冷や汗がドッと吹き出して来た。益々気分は悪くなるばかり、それで、せめてパンツだけは身につけねばと着替えを入れたバッグに手を入れ、そのものをつかみ出したところ、これがあなた、母ちゃんの(パン)+(ティ)だった。アレー、更に冷や汗ものの結末。
 もし、それを身につけ、救急車に運ばれでもしたら、千両ではなく、まちがいなく万両役者に成れ、末代までの語り草、否、その温泉に伝説を残したにちがいない。

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