2枚の写真
先日新築祝いに招かれた。仕事柄、駆け付けた、と言うべきか。とにかく開会にようやく間に合って、乾杯の挨拶に始まって四方山の話をしていると、ふと見上げた長押の上に、きちんと飾られた2枚の写真があった。
施主は私の出身高鍋町の友人。友人の父は私の父の友人でもあった。その彼に今回の仕事をさせて戴くきっかけは、たまたま出張で東京に飛行機で行った折に、何十年振りかで出遭ったことによる。
目の前を歩く男性の背中に見覚えがあった私は、もしかしたら「A君」かも知れないと思った。間違っては迷惑かと思ってそのまま行き過ぎようとしたところ、急に「A君?」は近くの椅子に腰かけた。
改めてじっくりと見てみると、そこには昔の懐かしい顔があった。「A君、俺だよ」ということになった。
長押に掛けられた2枚の写真は「A君」に生き写しだった。ただしA君よりもずっと年配で、好好爺と呼ぶに、ふさわしい恩顔の父君であった。その恩顔の向こうには私の父の顔があった。我が父と彼の父が年を取ってはいたが、2人で菊の花づくりに興じていたことを思い出した。
床の間にはお仏壇があった。
「すいません遅くなりましたが、お参りさせて下さい」そう言って参らせて戴いた。
妻も同席していたので2人して参らせて戴いた。ふと、我が妻はお参りする姿が良い女性であることを思って、粗忽な己が姿をカバーしてもらっていることに少なからず安堵しつつ、2人してこのご縁を戴いたことに感謝した。
思うに、ご新築の後、きっとA君は、このご仏壇をまっ先に家に運び入れ、ご両親の写真を長押に飾り、ようやく終の住み家を建て得たことを報告したことだろうと想像したことでした。
大切に飾られたご両親の写真は、きちんと飾り房も付けられており、そう言えば、これが普通のことであたりまえな光景なのだけれども、この頃、若い施主が多く、ご両親もお元気なことも多いせいか、こうした光景に出合うことが少なくなっていたような気がした。
これからA君は庭で菜園を楽しむという。ご両親は昔のこととて暮らしの足しにと自家菜園を大切に手入れされていた。子は親の鏡。彼の菜園がこれから末永く豊かにあらんことを祈りたい。