恐 山
「いたこ(巫女)」による口寄せで、夏の大祭には、死者の霊魂が集まるという青森の恐山に一度は行ってみたいと思っている。
こうしたことを信じるのかと問われると、自身リアリストなくせに、ロマンチストでもあり、「信じてみたい」といったところか。
もう一度会って話してみたい人は今のところ「父」しかいない。
呼び出されても、あまり文句は言わないだろうし、あの世が忙しくても「父」なら許してくれるだろう。親の心子知らずで、まずこちらから、親不孝を詫びることから始まって、とにかくも元気でいることを告げたい。
先日、次女に長男が生まれ、宮参りに行った。先年流産して、ようやくにして生まれ出て来た子供は、私にとっても初孫となった。
流産した子供は、誕生を3週間程前にしての残念な事態で、早期の変調に、適切な手当てがあれば救えた命のようだった。
今回は用心の為、大学病院での出産となった。考えてみるに、先の流産をした子供を、適切に帝王切開で救い出していれば、予後の経過から見て、今回の初孫の誕生は無かったことになる。
運命というものかも知れない。
宮参りは宮崎神宮。神様に新しい氏子の誕生をご報告に、ということで一同打ち揃って出かけた次第。
神殿で、孫は、まるでお供え物のように置かれ、鈴の音も賑やかに祝詞を戴いた。誠に、新しい命こそがこうした祝福を与えられるにふさわしい存在であることを思いながら、冬の厳しい板間に正座していた。
ようやくにして帰途に。
記念写真をということで社殿を背景に並んでいると、遠くから善男善女の参拝者が一団となって歩いて来るのが見えた。
先頭をガイドが旗を持って歩いている。
「宮参りですか、お目出とうございます。」
人々は口々に祝いの言葉を掛けて社殿へと進んでいった。年の頃は70才~85才程の高齢の人達で、なんとなく田舎の山の方から団体で繰り込んだといった様子だった。
帰り仕度をしながら、お守りなどを戴いていると、後ろの方で声が聞こえた。振り返ると、そこには早々とお参りを終えた、先程の老人達が駆け付けて、「顔を見せて」「ちょっとさわらせて」と大賑わいである。
そこには、ご先祖様と言っては悪いが、今や、一人一人の個性を越えた人々の顔が、笑顔となって重なるように集まっていた。
この世に生を受けて、無事に齢(よわい)を重ねた善男善女は七福神のようなご面相になって、我が初孫の生をこもごも愛でてくれている。
宮崎神宮の神域で、生きた七福神が寄り集まって祝って戴いたような気がして来た。
そのような訳で、恐山ではないが、この世はこうした善き人々の魂で満ちているから未来がやって来るというものではなかろうか。
そうして、七福神の多くの顔に、父の御霊も宿っているような気がしてならない。